武当休闲山庄 -> 日语角 -> 这些基本的知识点,你掌握了吗 [打印本页] 登录 -> 注册 -> 回复主题 -> 发表主题

cuixiaoliang 2006-11-21 10:48
「あなた」の使い方

全日制普通高級中学教科書『日語』の第2冊第1課(7頁)の本文に、「しかし、『あなた』は、特別な場合を除いて年が上の人には使えない言葉です。」という文が出ています。この「特別な場合」とはどんな場合を指しますか。

日本語では、人を呼ぶ時一般に人称代名詞を避ける傾向があります。特に二人称の「あなた」はかなり限定的に使われることばです。年上の人が年下の人や同輩者に向かって使うことはある程度許容されます。例えば、先生が生徒を「あなた」と呼んでも差し支えありません。しかし、生徒が先生を「あなた」と呼ぶと先生に不愉快な感じを与えます。年上の人を呼ぶ時は「あなた」の代わりに「苗字+さん」や職位名を使うことが比較的に多いです。では、『日語』の「特別な場合」とはどんな場合があるのでしょうか。例えば、会議や討論会などで、それまで相手を「~さん」と呼んでいた人に向かって、机を叩きながら「何言ってるんですか、あなたは」と言う場合があります。これは議論が激しくなり、ついに喧嘩状態に発展し、お互いに距離が生じた時の言葉です。もともと「あなた」は「むこう」や「あちらのほう」を表す方向代名詞で、のちに二人称として使われるようになったといわれています。したがって、上の場合「あなた」を使うことによって、相手を冷たく突き放し、相手との距離を保った言い方になるのです。一方、アンケート調査などによく見られる「あなたはどう思いますか」という使い方は、不特定多数や抽象的な感じを与え、特に抵抗はありません。「あなた」の一般的な使い方といえます。また、夫婦間の会話で妻が夫を「あなた」と呼ぶことが多いです。「ねえ、あなた」「あなた、そのネクタイ、すてきよ」というように、甘えや親しみ、軽い敬意を込めて使います。

加納陸人
文教大学教授/『日語』日本側主任編集委員

cuixiaoliang 2006-11-21 10:48
「に」と「で」

高校『日語』第1冊第1課6頁に「ベートーベンはドイツで生まれた有名な作曲家です」という文がありますが、「ドイツに生まれた~」とも言うことができると思います。その場合、「で」と「に」の違いを教えてください。

確かに「に」でも使えます。どちらも場所を示す助詞ですが、視点の置き方が違います。例文を見てください。

(1)応接間で花を生けました。
(2)応接間に花を生けました。

(1)は花を生けた場所は応接間ですが、その後花は応接間にあるとは限りません。
玄関や居間に置かれていることも考えられます。
(2)は応接間で生けた花は、そのままその場所に存在していることを表しています。つまり、「で」は動作・行為に、「に」は動作が行なわれた結果の存在に視点が置かれています。

(3)彼は商家で生まれました。
(4)彼は商家に生まれました。

(3)は生まれた場所が商家であって、そこの息子であるとは限りません。
(4)は商家の息子として生まれ、その結果、そこに存在することになったことを表しています。

では、質問の「ドイツで生まれた」と「ドイツに生まれた」を比べてみましょう。「で」は「生まれた」場所がドイツであるという、動作・行為が行われた場所に視点がおかれています。「に」はドイツという場所に生まれて、その結果存在している、ドイツへの帰属意識的なニュアンスが込められているとも考えられます。

加納陸人
文教大学教授/『日語』日本側主任編集委員

cuixiaoliang 2006-11-21 10:48
「私」の読み方

高校『日語』第1冊第1課6頁に「わたしには将来童話作家になりたいという夢があります」という文があります。「わたし」はどうして「私」と漢字で書かないのでしょうか。また、この「私」が出ている場合、「わたし」か「わたくし」か、判別することができるでしょうか。

現在の漢字の読み方の基準になっているのものは、「常用漢字音訓表」(1981年10月1日内閣告示)です。そこには、「私」の読み方として、訓の「わたくし」と音の「シ」が掲げられています。「わたし」という読み方は認められていません。「わたし」と表したいときは、ひらがな表記になります。この教科書もこの考え方に基づいて作成されています。

「私」は一人称の代名詞のほかに「個人に関することがら」などにも使われます。例えば、「このたび私ごとで皆様にご迷惑をおかけしました」「市立学校ではなく私立学校です」*「国の命運をまかされている人は、私の気持ちがあってはならない」などが挙げられます。いずれも「わたくし」と読まなければなりません。

しかし実際には、代名詞を表す「私」は「わたくし」か「わたし」か、あまり区別しないで使われています。中には、「私」と書いて「わたし」とふり仮名が付けてある場合もありますが、判断が難しいこともあります。音読する場合は、文体や書き手の年齢、場面などを考慮して判断するしかありません。例えば、公的な場所で改まって「本日、私がこちらにまいりましたのは……」とスピーチする場合は、「わたくし」だと推測がつきます。一方、わりあい親しい間柄の場面で「私、今、困っているんです」と書かれている場合は、「わたし」だと考えられます。

*「市立」「私立」は両方とも「しりつ」と読むので、特に区別したい時は、「いちりつ」「わたくしりつ」と言う。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:49
「どうぞよろしく」と「どうぞよろしくお願いします」
高校『日語』教科書第1冊第1課に次のような会話があります。

(1)周明:はじめまして。どうぞよろしく。
丁恵:こちらこそ。どうぞよろしく。

(2)丁恵:はじめまして。どうぞよろしくお願いします。
小川:こちらこそ。よろしくお願いします。

上の二つの会話を中国語に翻訳したら同じ意味になりますが、どう違うのでしょうか。①の「どうぞよろしく」は「お願いします」を省略した形でしょうか。

会話文を理解するうえで大切なことは、場面や人間関係です。まず(1)と(2)の会話が成立した背景について考えてみましょう。周明と丁恵は同じ高校の1年生で、名前はお互いに聞いていましたが、話すのはこの時が初めてです。小川は日本からの留学生で、周明と丁恵より年上です。

会話(1)では、周明と丁恵はどちらも「どうぞよろしく」という言い方で、ていねいさを少し抑えています。「よろしくお願いします」とした場合、よそよそしい感じになり、自然さに欠けます。ですから、会話(1)の「どうぞよろしく」には、周明と丁恵の「同級生」という親しみも込められています。「お願いします」を省略した形ではありません。

会話(2)の「どうぞよろしくお願いします」は、会話(1)の「どうぞよろしく」と比べるとていねい度が高いです。丁恵が年上の小川にていねいな言葉づかいをするのは当然ですが、小川も年下の丁恵にていねいな言い方をしています。小川にとって、丁恵ははじめて会った人で、あまり親しくない、自国の人ではない「ソト」の人間だ、という意識なども働いています。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:49
「~の時」と「~の時には」
高校『日語』教科書第1冊第1課「わたしたちの夢」の本文には、次のような三つの文があります。

(1)小学生の時には、童話の本をたくさん読みました。
(2)中学生の時、童話を書いてみました。
(3)中学三年の時、体操の練習でけがをして入院しました。

上の三つの文はそれぞれ「小学生の時には」「中学生の時」「中学三年の時」とありますが、それぞれ話し手のどんな気持ちを表したものでしょうか。「~の時」「~の時に」「~の時には」は、区別しにくいのですが、どのように違いますか。

ここでは「名詞+の+時/時に/時には」に限定して考えていきたいと思います。

「~時には」は、主題をとりたて、話し手の判断や対比性を表します。①の文は現在やほかの時期と比べて、小学生の時自分はどうだったかを振り返ってみると、「童話の本をたくさん読んだ」という判断や意識が働いたと考えられます。①は本文の書き出しでもあり、小学生の時のことを相手に伝えたい気持ちが働いています。

「~の時」と「~の時に」と比べると、「に」をつけたほうが、ある時の一点を表し、その時にどんな行為や事態が発生したかを表しています。例えば「子供の時によく動物園に行きました。」という文は「子供の時」という時点に視点が置かれています。

(1)の文を「小学生の時」に置き換えた場合、(2)と(3)と同じように、ただその事実を述べるだけです。それに対して、「小学生の時に」に置き換えた場合、「童話の本をたくさん読んだ」時点に視点が置かれます。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:49
「方がいい」の表記の仕方
高校『日語』教科書第1冊第2課に「後でかけ直した方がいいでしょう」という文があります。この「方」は、「使い方」の「方」の読みと混乱しやすいのですが、「ほう」と平仮名で教えてもいいでしょうか。

日本で出版されている日本語の教科書や参考書では平仮名表記も漢字表記も見られます。実際の社会でも、どちらも使われていますので、「ほう」の漢字にも対応していかなければなりません。この本文の文脈から見て、「かけ直した方がいい」の「方」を「かた」と読んだり、「使い方」の「方」を「ほう」と読んだりすることはないでしょう。しかし、このような質問が出された背景に、現場の教師や高校生に誤解や混乱を招いたという状況があれば、平仮名表記にするべきでしょう。

日本語能力試験では、「方(かた)」は4級、「方(ほう)」は2級レベルです。中国の教科書でも「方(かた)」を「方(ほう)」よりも早く教えるために、読み方を混同してしまったと思われます。一方、解説や練習の部分は、「~たほうがいい」と平仮名表記になっています。そのため、本文との関係でよけい混乱が生じたと考えられます。「~たほうがいい」は、この課で初めて出てくる文型です。学習者にこの文型を定着させ、使えるようにしていくためには、漢字の読みに左右されることなく理解し、効果的に練習していく必要があります。そのためには、漢字表記よりも平仮名表記にするべきだと思います。

質問の文章では、読み間違える心配はありませんが、誤解を招く文もあります。例えば、「中国の方がいいです」という文です。実際の社会では、この文が単独で現れることはまずありません。かならず場面があり、どちらかが判断できるはずです。しかし、誤解を避けるために、「ほう」と言いたいのであれば、漢字ではなく、平仮名を使ったほうがいいでしょう。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:49
「~しました」「~していました」
高校『日語』教科書第1冊第1課に「小学生の時には童話の本をたくさん読みました」という文があります。この「読みました」を「読んでいました」に置き換えることはできるでしょうか。もしできるなら、どういう区別があるのでしょうか。

結論からいうと、どちらも使えます。

「読みました」は、小学生の時に「読んだ」という事実を客観的に述べています。この場合、たくさん読んだことを読者に伝えたい気持ちが含まれています。

一方「読んでいました」は小学生の時に、「読む」という動作が続いていたことに重点が置かれています。つまり、過去の時点で続いていたことを表しています。

第1課には「わたしは夏休みに毎日音楽を聞きました」という文が出てきます。「毎日」だから「聞きました」を「聞いていました」に置き換えたほうがいいのではないか、という質問もありました。この文の場合も、置き換えることができます。「聞く」や「読む」は継続動詞で、「聞いていました」「読んでいました」は動作の進行状態を表しています。また、「毎日」があるから「聞いていました」のほうがいいのではないか、ということについては、文章の書き出しでなければ、そのほうがいい場合もあります。しかし、この場合は、書き出しを「音楽を聞いていました」とすると、何か唐突な感じを読者に与えます。やはり客観的な事実を伝える「聞きました」としたほうがいいでしょう。「毎日」をつけると、毎日聞くほど音楽が好きだということが強調されます。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:49
「ご」+「名詞」の使い方
高校『日語』第1冊第3課「ロボット」に「退院おめでとうございます。」という文が出てきます。同じ課のほかのところには、「お仕事」「お体」という言い方が出てきますが、これと同じように「ご退院」としたほうがいいのではないでしょうか。

質問者には、「ご」をつけることによってより敬意を高めたい、という気持ちがあるのではないかと思います。確かに文法的には正しいのですが、ここでは「サッチャン」の立場やキャラクター〔形象〕も配慮しなければなりません。

サッチャンは、だれからも親しまれており、明るくてかわいい子どものようなロボットです。敬語を使いすぎると、かえって親しさが薄れます。職場などで上下関係がある場合は別ですが、日本人は親しくなるにつれて、あまり敬語を使わなくなります。逆に親しくないから敬語を使う場合もあります。敬語は互いの距離を示す表現です。それで、サッチャンのキャラクターを考慮し、敬語は必要最低限度におさえました。例えば、本文に「どうもありがとう。それじゃ」とあります。敬語を使わないで、サッチャンのかわいらしさを表しています。「お仕事が終わりました」の「お仕事」は美化語ですが、この場合は「お」をつけたほうが柔らかく、サッチャンのイメージに合います。

 「退院おめでとうございます。お体を大切にしてください」

この文は、ていねい語の「おめでとうございます」に、尊敬語の「お体」が続いています。同じ文に敬語が続くと、あまりにもていねいすぎ、サッチャンの持つ親しさがなくなってしまいます。また、「ご」は漢語的で硬い感じがします。それで、「退院」には「ご」をつけませんでした。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:50
「~を通して」と「~を通じて」
高校『日語』第1冊第13課には「この交流を通して」とあり、第2冊第14課には「今回のボランティア活動を通じて」とあります。「~を通して」と「~を通じて」は、どちらも中国語では「通?…」と訳します。この区別がよく分かりません。

「~を通して」と「~を通じて」は、同じように使える場合が多いです。教科書の場合も、どちらに置き換えても使えます。何かが成立したり、何かが行われるときの「媒介」や「手段」、「期間」などを表しています。例文①はインターネットを媒介にしており、例文(2)は1年間ずっとという意味を表しています。

(1) 2人はインターネットを通して/を通じて知り合いました。
(2) わたしの国は1年を通して/通じて暖かいです。

「~を通して」と「~を通じて」は同じように使えますが、ニュアンスの違いがあります。

(3)現地の大使館を通じて、外務省に事件の第一報が入った。

「~を通じて」は書き言葉的です。例文(3)のように、新聞やニュース報道、報告書などの硬い文章では、「~を通じて」のほうがよく使われます。

(4)社長と面会するには、まず受付を通して連絡をとってみてください。
(5)具体的な事例を通して考えていきたい。

例文(4)のように人などを間に立てて、何かをするという積極的な意味が伴っている文には「~を通して」のほうが自然です。また、例文(5)ように意志的な文との結びつきも強いといえます。ですから、ただ事実を述べる「受付を通して連絡があった」という文を「を通じて」と置き換えても、ニュアンスはそれほど変わりません。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:50
「さっそく」の使い方
高校『日語』第一冊第13課本文に「何度も練習したのに、さっそく失敗してしまいました」とあります。参考書には「さっそく」は、ある目的のために、チャンスを逃さないようにそのことをすると書いてありましたが、本文の意味がよくわかりません。

確かに、「さっそく」には、ある目的のために、すぐに実行に移すという意味があります。例えば、話し手が積極的に次の行動をしたいと考えている場合です。ですから、(1)(2)のように人の意志的な動作や行為をともなった文に比較的よく使われます。

(1)プレゼントをもらい、その場でさっそく開けました。
(2)新しい単語を勉強したので、さっそく使ってみました。

しかし、本文は意志的なものを含んでいません。日常生活では、このような使い方がしばしば見られます((3)(4))。

(3)今、書類の書き方を教わったばかりなのに、さっそく間違えてしまいました。
(4)先生に何度も忘れ物をしないように注意されたのに、次の日、さっそく忘れ物をしてしまいました。

(4)は、書類の書き方を教わり、書き始めたら、すぐに間違えてしまったことを表します。(4)は、先生に忘れ物をしないように注意され、次の日には、もう忘れ物をしてしまったという意味です。つまり、これらの「さっそく」は、「~してすぐ」や「~して最初に」を表し、マイナスの結果を招く場合によく使われます。

本文は、間違えないように何度も練習し、それほど時間がたっていないのに、牛島君に会ってあいさつしたら、間違えてしまったことを表しています。この場合、最初からこのような失敗をしてしまって、困ったというニュアンスを含んでいます。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:50
「~ために」と「~ように」
高校『日語』第一冊に目的を表す「~ために」(第1課)、「~ように」(第13課)がありますが、使い方の違いを生徒によく質問されます。生徒に説明しにくいところですので、教えてください。

「~ために」は、行為をする人がある目的のために何かをすることを表しています。「XためにY」では、Xは意志的な動作を表す動詞で、XとYの主体は同じでなければなりません。「~ために」の「に」は省略されても意味は同じです。

一方、「~ように」は、望ましい状態が実現することを願ってという意味合いを持っています。「XようにY」のXの部分には、一般的に意志的な動作でなく、状態性を表す動詞や可能形、否定形などが来ます。XとYは、主体が同じ場合も異なる場合もあります。

(1) 留学するために、お金をためています。{×ように}
(2) 留学できるように、お金をためています。{×ために}
(3) 子どもが留学できるように、お金をためています。{×ために}

(1)は意志的動詞で、主体は同じです。②は無意志的動詞で、主体は同じです。③は無意志的動詞で、主体が異なっています。

否定の表現「~ないために」「~ないように」は、多くの場合、同じ文脈で両方使えますが、ニュアンスが少し違います。

 (4)遅れないように/ないために、いつも早めに家を出ることにしています。

両者を比べると、「~ないように」は予防的で消極的、「~ないために」は積極的で前向きな印象を与えます。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:50
「お好きでしたね」と「お好きですね」
高校『日語』第1冊第15課について

周明:そう言えば、先生は京劇がお好きでしたね。

下線は「お好きですね」に置き換えられますか。また、「お好きでしたね」はどんな気持ちを表していますか。

結論から言うと、現在形の「お好きですね」に置き換えることができます。
しかし、この会話がどんな場面かを考える必要があります。この場面は、三上たちが水谷先生も京劇に誘おうとしている言葉を受けて、水谷先生が京劇が好きなのを周明が思い出した場面です。「そう言えば」は相手の話を受けて使う場合が多いのですが、何かを思い出したり、気づいたりした時に使います。

「お好きですね」の場合は、ただ単に「好きだ」ということを述べているに過ぎません。この場面では、「そう言えば」の呼応関係から見ても、そのあとに何かを思い出したり、気づいたりするニュアンスを持つ文のほうが合います。したがって、過去形の「お好きでしたね」のほうがよりこの場面にふさわしいと言えます。過去形が使われていますが、以前、「好きだった」という意味ではありません。何らかの方法で過去に得た水谷先生が京劇を好きだという情報を思い出し、確認する気持ちを表しています。このような過去形を使う言い方は、会話の中でよく見られます。

例えば、「お名前は何と言いましたか」と「お名前は何と言いますか」の発話意図には違いがあります。前者の場合は、以前、名前を聞いたことがあるのに忘れている時に使い、後者は今まで名前を聞いたことがない時に使います。つまり、過去形と現在形は、時間的な対立関係を表しているのではありません。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:50
「~ですが」「~ですけど」
高校『日語』第1冊第17課について

小川:もしもし、小川ですが。丁恵さんはいらっしゃいますか。
丁恵:はい、わたしですが。

下線の部分は「けど」に置き換えられますか。この場合「けど」と「が」の区別を教えてください。

これらの「が」は「けど」に置き換えることもできます。「が」と「けど」の使い方に大きな違いはありませんが、「が」より「けど」のほうが会話的でくだけた感じがします。「が」や「けど」の使い方についてですが、ここでは逆接の意味はありません。

「もしもし、小川ですが」の「が」は、相手に何か働きかける前に前置きとしてよく使われます。日本人は電話をかけた時、普通、最初に自分の名前を言って次の発話につなげるので、「もしもし+自分の名前+ですが」のように言います。<

「はい、わたしですが」の「が」は、そのあとに続く「何かご用でしょうか」が省略されていると考えられます。日本語の話し言葉には、「が」や「けど」の文のあとを言わないですませる傾向があります。「はい、わたしですが。(何かご用でしょうか。)」の(  )の部分を言わないことによって、相手が遠慮なく希望や意向が述べられるような働きを持っています。「何かご用でしょうか」まで言ってしまうと、冷たい印象を相手に与えることがあり、相手が言いにくくなるおそれがあります。中国語ではこのような時、「有什?事??」と言うことによって、コミュニケーションを円滑にはかることができますが、日本語では逆効果になります。このように「が」「けど」の後を省略するような話し方は、相手の気持ちを考えたものと言えます。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:51
「~まで~ない」
高校『日語』第3冊の実力テスト(一)の中に「先生は来週の火曜日まで学校に来ません」と一番意味の近い答を選ぶ問題があります。正しい答は「来週の火曜日に来る」となっていますが、よくわかりません。どうしてでしょうか。

これは、(a)「火曜日に来る」場合と(b)「水曜日に来る」場合が考えられます。上記の問題の場合は、選択肢に「水曜日に来る」に相当する文がないので、正しい答は「火曜日に来る」ということになります。これは、「XマデP(継続を表す述語)」における「マデ」の持つ曖昧さからくる問題といえます。
 しかし、次のような文だと少しはっきりします。

 (1) 林さんは5時まで来ません。

 この場合は、「Xマデ」の「X」は「5時」という「点」を表しています。つまり、瞬間時に「来ない」状況と「来る」状況が生まれます。「5時」はその境界を表しており、ここでは「5時に来る」という解釈が成り立ちます。



教科書の場合は、火曜日、つまり一日という幅の中でのできごとです。「XマデP」の「X」は「非瞬間時」を表しています。火曜日は「来ない」の終点でもあり、「来る」の起点でもあります。ですから、上記の(a)(b)二つの解釈が考えられるのです。



次の文はどうでしょうか。

 (2) このエレベーターは10階まで止まりません。
 (3)生ゴミは7日まで出せません。

 (2)は「XマデP」の「X」が瞬間的ですから、エレベーターが10階まで止まらずに行き、10階で止まることを表しています。③は「X」の部分が非瞬間時を表していますから、「7日にゴミが出せる」状況と「8日にゴミが出せる」状況の二つの解釈が成り立ちます。
 また、「XマデP」の「P」部分が肯定的な文の場合は、それほど問題ではありません。

 (4)生ゴミは7日まで出せます。
  (7日がゴミを出せる最終日を表している。)
 (5)林さんは来週の水曜日まで休みます。
  (水曜日が休む最終日を表している。)

 「XマデP」の「マデ」が曖昧になるのは、Xが「非瞬間時」であり、「P」の部分が否定をともなう文の場合です。しかし、実際には曖昧な表現でも、前後の文脈から意味が明らかになる場合が見られます。

 (6)(陳先生が不在だと聞いて)
 「陳先生は、いつ学校にいらっしゃいますか」

 (c)「そうですね…、火曜日に授業がありますから、来週の火曜日まで来ません」
 (d)「陳先生は来週の火曜日まで来ません。火曜日まで北京で会議がありますから」
 文脈から判断すると、(c)は「火曜日に来る」ことを表し、(d)は「水曜日に来る」ことを表します。

 日本語社会で育った人でも「来週の火曜日まで学校に来ません」と聞いただけでは、その人の持つ語感によって「火曜日に来る」と判断したり、「水曜日に来る」と判断したりするケースが見られます。ですから、日常生活では、誤解や混乱を避けるために、わかりやすい表現を使うことが大切です。たとえば、「来週の月曜日まで休みますから、火曜日には学校に来ます」などです。


時制に関する問題
高校教科書『日語』の本文に以下の文が出てきます。

(1) 「その時、前を歩いていた少年選手が突然倒れました。辺りには、山本さんたち以外はだれもいません。」(第2冊第9課)
(2) 「王様は国中の人に聞きましたが、だれも解けません。」(第1冊第16課)
(3) 「家に帰ってからも何度も電話をかけましたが、だれも出ません。」(第3冊第8課)

(1)~(3)の下線部は、どうして「いませんでした」「解けませんでした」「出ませんでした」ではないのですか。

質問はテンス(時制)に関係する問題です。質問に答える前にテンスについてちょっと考えてみましょう。次の文を見てください。

 (1) a.明日、日本料理を食べる。(未来)
    b.昨日、日本料理を食べる。(×)
    c.昨日、日本料理を食べた。(過去)
    d.明日、日本料理を食べた。(×)

 (2) あそこにスーパーがある。(現在)


この例文でわかることは、dのように時を表す「明日」をつけても、動詞が基本形「食べる」でないと未来を表すことができないことです。同様にbでは「昨日」があっても過去形「食べた」がないと過去の意味を表すことができません。②の「ある」は現在を表しています。「食べる」のような動作動詞の基本形は、「未来」を表し、「ある」のような状態動詞の基本形は「現在」表すと考えられます。つまり、テンスの区別は、動詞の部分によって基本的に表されていると言えます。

しかし、動詞の基本形は、すべて現在や未来を表しているのではありません。例えば、次のような例があります。

 (3) チンさんはいつも日本料理を食べる。 (習慣)
 (4) 太陽は東から昇る。 (真理)
 (5) 1972年に日中の国交が回復する。 (歴史的現在)
 (6) 一人暮らしの女性の家に泥棒が入る。 (提示・表題)

 (3)~(6)の例は、時間の流れにかかわりなく成立するものです。
 また、過去形は必ずしも過去を表しているわけではありません。

 (7) お名前は何とおっしゃいましたか。(想起)
 (8) あ、こんなところにあった。(発見)
 (9) ええい、やめた。(決定)
 (10) そこの角を曲がった所に病院がある。(状態)
 (11) さあ、買った、買った。(要求)
 (12) ありがとうございました。(確述意識)



(7)は以前名前を聞いていたのに、忘れてしまい、もう一度尋ねる時に言います。(8)は何かを探していて、見つかり、それが眼前にある時の言い方です。(12)は現在の時点での感謝の気持ちが確かなものであるという話者の意識を表しています。動詞の過去形を使うことによって、話し手の意図や気持ち、意識を表そうとしているのです。

では、質問にあるように過去のことを表している文なのに、どうして基本形を使っているのでしょうか。もちろん、「いませんでした」「解けませんでした」「出ませんでした」を使っても不自然ではありません。しかし、書き手の立場から言うと、文章の効果をねらっていることが理由として挙げられます。このような手法は、小説や物語などに多く見られます。(1)の場合、過去に行われた登山競技をスタートから描き、「少年選手が突然倒れました」⇒「だれもいません」⇒「お互いの顔を見ました」となっています。これは書き手がその場にいて、見た様子をそのままに描いている臨場感が感じられます。(2)は物語ですが、「だれも解けませんでした」より「解けません」としたほうがよりその場の雰囲気が伝わってきます。(3)も同様です。この文では、だれも電話に出ない状態がポイントになって場面が展開されていきますので、過去形にするよりも効果的です。これらはどの位置から事態を眺めるか、書き手の視点が入っていると言えます。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:51
体と時制に関する問題
高校の教科書『日語』の本文に次のような文が出てきます。

①「ここに住んでいる人の約25パーセントが1人暮らしをしているからです。団地の近くに住む高校の中村先生は旗の意味を知り、老人の旗を訪問するようになりました。」(第3冊第8課)
②「高校ボランティアの多くは被災地に行く前には自分で何ができるか、とても不安だったと言います。」(第2冊第14課)

上記①「住んでいる」と「住む」、②「言います」「言いました」「言っています」は、それぞれどう違いますか。

この質問はアスペクト(体)とテンス(时)に関係があります。テンスは前回触れたので、ここではアスペクトを中心に説明したいと思います。アスペクト「している」には、次の用法が考えられます。

 a.張さんは今手紙を書いています。(進行)
 b.母は椅子に座っています。(結果の状態)
 c.あの子は母親と顔がよく似ている。 (恒常的な状態)
 d.松本さんは李新君のことをほめています。 (経験)
 e.李さんは毎日、日本語学校に通っている。 (繰り返し)

 ①「住んでいる」は、上記bの用法に相当し、「住む」という動作の結果としての状態を表しています。「住む」は、ある場所を生活の根拠地にする意味で、長期間にわたる動作を表しています。本文のような連体修飾の場合、「住んでいる」を「住む」に、「住む」を「住んでいる」に置き換えることができます。ただし、書面語では「住む」、口頭語では「住んでいる」という形のほうが一般的です。また、次のような例、「今度、高校の近くに住む中村先生です。」の「住む」は、現在ではなく未来を表しています。
 ②「言います」はそれぞれ「言いました」「言っています」に置き換えることができます。しかし、それぞれの用法が違います。上記の「言います」は、高校生ボランティアが言ったことを伝聞として表しています。つまり、伝聞の「そうだ」に相当します。主語は普通三人称です。「言いました」は、高校生ボランティアが過去に直接言ったことを引用して、過去の発話として表現しています。「言っています」は、この文脈では上記のd「経験」を表しています。「言う」は継続動詞で動作の進行を表す場合もありますが、文脈によって用法も違ってきます。ここでは、被災地に行く前の高校生ボランティアの不安な気持を振り返って述べていることを表しています。
これと同じ用法がこの課の本文にもあります。
 「ボランティア活動に参加した高校生の多くは、ボランティアに対する考え方が大きく変わったと言っています。」
これも「経験」を表し、「言っていました」にも置き換えることができます。「言っていました」だと、高校生たちの多くがボランティアに対する考え方が変わったことを第三者的な報告として述べるニュアンスが出ます。
本文を作成した者の意図としては、「住む」「住んでいる」や「言います」「言っています」を使用することで、文が単調にならないように、同じ表現になることを避けました。


「わかりました」と「大丈夫です」
問題集に次のような選択問題がありました。

  A:夏休みの宿題をちゃんとやってくださいね。
  B:はい、大丈夫です。/はい、わかりました。

 正解は「はい、わかりました」でした。でも、高校教科書第1冊の会話では「はい、大丈夫です」と言っているのですが、どちらが正しいのでしょうか。
まず、教科書の会話部分を見てみましょう。

 水谷:あしたから夏休みですね。周明君はどうしますか。
 周明:はい、8月末まで内モンゴルのおじさんのパオで過ごすつもりです。
 水谷:それは楽しそうですね。でも、夏休みの宿題を忘れないでください。
 周明:はい、大丈夫です。ちゃんとやってきます。

 水谷先生は、周明から夏休みに内モンゴルに行くというのを聞いて、宿題を忘れないでできるかどうか心配しており、それに対して、周明はちゃんとやってくるからという気持ちで「はい、大丈夫です」と答えています。つまり、水谷先生に心配をさせたくないという気持ちが表れています。また、この部分を「はい、わかりました」に置き換えることができますが、その場合、ただ単に「宿題を忘れないで」という水谷先生の言葉を理解したことを表しているにすぎません。
 さて、問題集のほうですが、教科書と比べると場面設定がはっきりしませんが、この文だけで判断すると「はい、わかりました」で答えるのが普通です。「はい、大丈夫です」で答えるには、「ちゃんとやります」とか「かならずやります」などの言葉が続いたほうが自然です。
 しかし、「はい、わかっています」というと失礼になってしまいます。話し手は、そのことを理解しており、それ以上の忠告は聞きたくないという含みを持つことが多いからです。使う時には気をつけてください。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:51
「絶対に~ない」と「決して~ない」

 高校教科書第2冊に「絶対(に)~ない」「決して~ない」が文法項目に出てきます。どちらも「绝不……」の意味だと説明されていますが、区別がありますか。

まず、次の例から考えてみましょう。

 ①彼は日本語の先生ではありません。
 ②彼は絶対(に)/決して日本語の先生ではありません。

 ①の場合は、単に日本語の先生ではないという事実を述べています。②の場合は何かの前提があることが考えられます。例えば、彼は日本語が上手なのだから、日本語の先生ではないかと何度も聞かれた場合や日本語ができるのだから、ほかの科目ではなく日本語の先生のはずだと言われた場合などが考えられます。「絶対に~ない」も「決して~ない」も強い否定を表しますが、使用するうえでの心理面が違います。

 ③夜中に電話をするのは絶対に/決してよくない。


 「絶対(に)~ない」は、話し手にとって夜中に電話をするのは、無条件によくないと否定する意識が働いています。「どんな条件でもだめだ」「どうしてもだめだ」という判断に基づいています。

一方、「決して~ない」は、夜中に電話をかけるのはよくないが、緊急の場合や非常事態だったら、仕方がないという前提意識が強く働いています。ですから「夜中に電話をするのは決してよくないことだが、生死に関わることなので電話をした」という文が成立します。「決して~ない」は、前提になる理由によっては、止むを得ない気持ちで例外を許す意識が潜んでいます。

 ④李さんはパソコンが絶対(に) ○/決して×できないだろう。


 この文は、話し手が李さんに対してパソコンができないという疑いの気持ちを表しています。このような場合は「決して」が使えません。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:51
副詞に付く「に」と「と」
高校『日語』に以下の文があります。

 (1)サッチャンはゆっくりと動いていきます。(第1冊第3課)
 (2)もちろん、自分の気持ちをはっきりと表現しなければならない場面もあります。(第1冊第17課)

上記の副詞は「と」が付きますが、この「と」は何を表していますか。

また、「ぴかぴかと」と「ぴかぴかに」のように「と」と「に」のどちらも付く語がありますが、違いはあるのでしょうか。

(1)「ゆっくりと」の「と」は、どのように動くか、その動く様子を表しています。(2)「はっきりと」は、どのように表現するか、その状態を説明しています。「ゆっくりと」「はっきりと」の「と」の前まで、つまり「ゆっくり」「はっきり」が副詞で、「と」は語尾といっていいでしょう。動作の対象を表す助詞の「中野さんと相談する」の「と」とは区別されます。また、「ゆっくりと」「はっきりと」は、「と」が省略できます。ただ、「と」が付いているほうが、動作のありさまに着目しています。

「と」が付く副詞は、動詞の様子や状態を表す「様態の副詞」に比較的多く見られます。例えば、「きちんと」「わざと」「しっかりと」などがあります。

しかし、「様態の副詞」に全て「と」が付くとは限りません。例えば、「おもむろ」「じき」などは、「に」が付き、「と」は付きません。

また、様態を表す副詞には擬態語や擬音語も含まれています。高校の教科書には「カサカサ」「にっこり」「にこにこ」などの語が出てきますが、いずれも「と」を付けることができます。


「と」も「に」も付く副詞
擬音語や擬態語の中には、「ぴかぴか」のように「と」と「に」の両方が付くものもあります。「と」と「に」が付く場合では、ニュアンスが異なります。次の文を見てください。

 例1:ロボットの目がぴかぴかと光っています。 
 例2:ガラスをきれいに磨いたので、ぴかぴかに光っています。

「と」が付く場合は、動きの過程に視点が置かれ、現在の様子や状態を表します。例1では、ロボットの目が点滅しながら光っている状態を表しています。「に」が付く場合は、動作や作用が行われることによって、生じる結果の状態を表します。例2では、ガラスをきれいに磨いたことによって、現在、ガラスが光っている様子に重きを置いています。
 では、次の文を見てください。

  例3:かばんに衣類をぎゅうぎゅうと詰める。
  例4:かばんに衣類をぎゅうぎゅうに詰める。

例3の場合は、かばんにきつく詰めている過程、動作を表しています。

例4では、かばんに詰めた結果、その状態がいっぱいに詰まっている様子に重点が置かれています。しかし、このような「と」と「に」が付く副詞はそれほど多くありません。特に、上述したような「と」と「に」でニュアンスが異なるものは、擬音語や擬態語に多いようです。
 

cuixiaoliang 2006-11-21 10:52
「~のです」と「~んです」
高校『日語』第3冊の第1課に以下の会話文が出てきます。
a. 「奈良の仏像について調べる宿題があるんです。」(生徒)
b. 「それで、いろいろ伺いたいことがあるんですが、いいですか。」(生徒)
c. 「どうして日本に来られたんですか。」(生徒)
いずれも「んです」という表現ですが、この課は会話ですから、以下の文もすべて「んです」に置き換えることはできませんか。
d. 「でも、どうしてこの寺の仏像を調べようと思ったのですか。」(僧)
e. 「目は閉じているのではなくて、見えないのです。」(僧)
f. 「それから、12年後に日本に来られたのです。」 (僧)

 ここでの用法も含めて説明してください。

この「の(ん)だ」は、「映画を見るのが好きだ」のように名詞節を作る「の」と違って、「の」が独立性を失って「の(ん)だ」という形で、話し手の気持ちを表します。ふつう書き言葉では「のだ」、話し言葉では「んだ」が使われる傾向にあります。上記の質問は、話し言葉だから「んです」でもいいのではないかという趣旨の質問だと思います。確かに文法的には、すべて「んです」にしても間違っていません。ただ、この場面は、高校生が僧侶にインタビューし、僧侶がそれに答えて、鑑真のことを説明する場面です。僧侶がきちんと話しているイメージを表すために、僧侶の発話には「のです」を多くしました。「のです」を用いると、丁寧さが加わるからです。一方、高校生の発話では、高校生の話し方に近づけ、その自然さを出すために「んです」を用いました。「のです」と「んです」を使い分けることによって、両者の気持ちや雰囲気を出しました。
「の(ん)だ」の用法について見てみましょう。

1.話題の切り出し
 新たな話題を提出する前提やきっかけを切り出すために、その話題の背景を表します。aがその用法にあたります。生徒がこれから僧侶に奈良の仏像について聞きたいという、話を切り出す役割があります。

2.説明や理由づけ
 「の(ん)だ」の文は、前提になる発話や状況について、話し手が「説明」や「理由づけ」をする機能があります。b、e、fがそれにあたります。eでは、「目を閉じているのが不思議」だという前提の発話があって、それに基づき「目は閉じているのではなくて、見えないのだ」と説明する機能として「のだ」が使われています。

3.聞き手に説明を求める
 例えば、「どうして~のですか」という聞き方で、話の内容やその場の状況などに関して、聞き手に何らかの説明を求めるという用法があります。cとdがそれにあたります。ただし、この場合、気をつけなければならないことがあります。例えば、「先生は今年、中国に行ったんですか」という形を話の前提がないのに使うと、中国に行ったかどうかを疑う気持ちを含むことがあります。それによって、聞き手に不快な感じを与えたりします。また、音声的にも「の(ん)ですか」の部分を強調すると、詰問しているように聞こえたりするので気をつけましょう。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:52
「の(ん)だ」の気をつけなければならない使い方
 前回、「の(ん)だ」の用法を取り上げましたが、今回は、具体例を挙げて、「の(ん)だ」の気をつけなければならない使い方について説明します。

「の(ん)だ」を過度に使用する誤用
例1: <自己紹介で>私は中国のハルビンから来たんです。(×)
例2: <話し手が陳さんを誘おうとして>陳さんも一緒にコンサートに行くんですか。(×)
例3: 電話をしても出ないところをみると、家族で出かけているのようだ。(×)
自己紹介の場面で、例1の言い方を時々耳にしますが、不自然です。この場合は「私は中国のハルビンから来ました」と言うほうが自然です。「の(ん)だ」は何らかの話の前提や関連がないと使いにくいのです。しかし、中国の出身地が話題にのぼり、ハルビンから来たことを説明したり、理由を述べたりする場合には使えます。
  「の(ん)だ」には「勧誘」の機能はありません。例2の言い方は、陳さんはコンサートには行かないのではないかという発話意図を含んだり、本当に行くのかと詰問するような印象を与えたりして、聞き手に不快な感じを与えるおそれがあります。
 例3のように、「ようだ」などの話し手の気持ちを表す表現は、「の(ん)だ」といっしょに使えません。この場合「出かけているようだ」が正しい言い方です。

「の(ん)だ」を欠落させる誤用
 接続関係で「の(ん)だ」を欠落させるケースがよく見られます。次の例を見てください。

例4: 戻ってこないところをみると、王さんはまだ、図書館で調べているでしょう。(×)
例5:どうして日本語の勉強を始めましたか。(×)
例6: 日本文学を学ぶために、日本に行きましたか。 (×)

  例4は、「図書館で調べているのでしょう」と言わなければなりません。この場合、王さんのことを聞かれている前提があり、まだ戻ってこないという判断から、図書館で調べていることが理由づけとして述べられています。「図書館で調べているでしょう」は、「戻ってこないところをみると」の代わりに「今ごろ」を使った場合、推測のみを表します。この時は「の(ん)だ」は必要ありません。しかし、例4のように、何らかの理由づけや説明をする場合は、「の(ん)だ」が必要なのです。
 例5は、「どうして日本語の勉強を始めたんですか」のほうが自然な言い方です。しかし、前回説明したように、「どうして/なぜ~のですか」を、話の前提がないのに使ったり、「の(ん)ですか」の部分を強調したりすると、詰問しているように聞こえることがあるので、気をつけましょう。
 例6のように従属節を含む場合にも「の(ん)だ」が必要になってきます。この場合、「日本に行ったのですか」が自然な言い方です。
 「の(ん)だ」の誤用の中で比較的多いとされるものが欠落です。上記の例文は、一部にすぎません。中国語には「の(ん)だ」に相当する標識がありませんから、学習者には混同が見られます。接続関係やどんな機能があるかをよく把握し指導していかなければなりません。そして、過度の使用や欠落には注意を払う必要があります。「の(ん)だ」をうまく使えば、特に話し言葉では、とても自然な感じの日本語になります。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:52
体言止めの効果
高校『日語』第3冊の第4課本文1行に「敦煌。静かな町を一歩出ると・・・・・・」という表現があります。この「敦煌」は一つの文だと考えられますが、このような表現はどのような場合に使いますか。また、どういう効果がありますか。

これは「体言止め」という表現手法の一つです。この手法は、説明文や論説文よりも文学作品などに見られます。この教科書の作成者として、この表現方法を使った意図を述べたいと思います。

まず、読者の目の前に、「敦煌」の情景が浮かんでくるようにしたいと考えました。それには、書き出しに余計な字句を加えないで「敦煌」のみにしたほうが、「敦煌」に焦点があてられ、効果的だと思いました。また、「敦煌」と簡潔に言い切ることで、文字の持つ視覚的な側面だけでなく、音の響き、リズムにも配慮しました。「敦煌」という言葉に集約されている歴史のロマンを読み手に感じとってほしいという意図も含まれています。ですから、この書き出しは、単に単語としての「敦煌」を意味するのではなく、この表現の中に多くのメッセージが込められています。中国の高校生であれば誰でも知っている「敦煌」について、そのイメージを膨らませてほしいのです。この課を導入する時に、生徒たちにそれぞれが持つ「敦煌」のイメージを出させるのもいいかもしれません。

この手法は作文にも応用できます。しかし、作文では、文学的な手法を使うよりも、読み手にとって分かりやすい文章を書くよう指導したほうがいいでしょう。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:52
読み手・聞き手の注意を促す過去形の用法
高校『日語』第2冊第12 課の本文に次の文があります。
「レースを見ていた人たちがみんな立ち上がって、叫んでいます。」
今、観客はレースを見ていますか、見ていませんか。見ているなら、どうして「レースを見ている人」ではないのですか。「叫んでいる」時には、もうレースを見ていないのですか。

この文だけを見ると、質問にあるように、レースが終わり、レースを見終わった観客が、立ち上がって叫んでいる、というように解釈されがちです。しかし、前後の文脈から考えると、まだレースは続いており、観客はレースを見ていると考えられます。これは時制(テンス)の問題でもあります。

「タ形」(過去形)は、過去の動作や出来事を表すのを基本としていますが、それだけではありません。読み手や聞き手に注目を促す表現もあります。例えば、鍵をどこに置いたか忘れてしまい、その鍵をさがして見つけた時に「あっ、こんなところに鍵があった」と言います。これは「事実の発見」に視点を置いた言い方で、過去を表しているのではありません。

本文を「レースを見ている人たち」と置き換えても間違いではありません。しかし、次の文(「高校生たちが作ったソーラーカーが途中で壊れて止まってしまったのです。」)は読み手の視線を向けるのに効果的ではありません。「レースを見ていた人たち」とタ形で表現したのは、この文の書き手が、レースを見ている観客の存在を認め、焦点をあてることによって、読み手にその存在を伝えるという役割があります。つまり、「レースを見ていた人たち」という表現にすることで、誰が立ち上がって叫んでいるのかが、より明確になり、臨場感も加わり、実況中継に近い効果が出るのです。

cuixiaoliang 2006-11-21 10:52
「見える」と「見られる」の違い
「見える」と「見られる」はどちらも中国語では「看得见」「能看到」となるので、生徒には使い分けが難しい。どのように違いを説明すればいいでしょうか。

ここでは「見える」と「見られる」は、何かを見て目で感じる時に限定して取り上げます。まず、「見える」を使う例文を見てみましょう。

①めがねをかけると、新聞の字がよく見えます。

これはめがねをかけることによって、字を見るという目の「機能」がよく働くようになったことを表しています。また、「目の前が一瞬見えなくなった」という場合も、何らかの原因で目の「機能」が一時的に働かなくなったことを表します。このように、目の「機能」を問題にする時には「見える」を使います。
次に、「見える」「見られる」どちらも使える場合を見てみましょう。

 ②ここから海が見えます/見られます。
 ③晴れると富士山が見えます/見られます。

これらの例文は、「見える」「見られる」のどちらも使うことができます。②③は、「ここから」「晴れる」という条件を付加することによって、「見える状態」になることを表しています。ただし、両者のニュアンスは少し違います。「見える」は、意思に関わりなく対象が目に入ってくる状態だといえます。一方、「見られる」は、話者が「ここから」「晴れる」という条件を作為的にとらえ、可能性として「富士山を見ることができる」と判断したと考えられます。つまり、「見える」は自発的であり、「見られる」は可能性に重点が置かれています。
次の例文を見てください。

④正月、日本では着物を着た女性の姿が見られます。

この文には「正月、日本」と条件がかなり限定されています。話者が作為的に条件を表し、その結果、そのような可能性や機会を持つことができる場合は、「見られる」のほうが自然です。逆にいうと、着物姿を見る条件として、正月や日本が欠かせないということです。しかし、正月や日本という条件をはずし、話者の眼前の様子を述べる場合は、「着物を着た女性の姿が見えます」と言っても不自然にはなりません。
さて、次のような誤用をよく目にします。

⑤(×)街のいたるところにゴミが見えます。

これは自発的なニュアンスを持つ「見える」をそのまま用いたことによる誤用だと考えられます。また、発話意図から考えると「見られる」を用いてもしっくりきません。この文は、「いたるところ」を使っているように、ただ目で感じたことを述べたものではなく、観察をした結果、ゴミがたくさんある、汚いといった判断や心理面も関係するので、「目立つ」や「目につく」などが表現として適切です。

ところで、①の「よく」は「くっきり」「はっきり」「きれいに」というような意味です。②③に「よく」が付くとどうでしょうか。
「ここからは海がよく見えます」「晴れると富士山がよく見えます」、これらの場合も、①と同様の意味となります。この時、「見られる」は使えません。
では、「見られる」に「よく」が付くとどうなるでしょうか。例えば、「正月、日本では着物を着た女性の姿がよく見られます」の場合、「よく」は「頻繁に」という意味になります。この時、「見える」は使えません。

「見える」と「見られる」は、中国語に置き換えて対応できる場合もありますが、両者を使い分けるには、日本語からのアプローチが大切になってきます。

iamlrl 2008-08-30 14:46
呵呵,完全看不懂啊,不过我非常喜欢日文歌。


查看完整版本: [-- 这些基本的知识点,你掌握了吗 --] [-- top --]


Powered by PHPWind v5.3 Code © 2003-05 PHPWind
Gzip enabled

You can contact us

沪ICP备:05041533号